ケータイ小説 - 新幹線ものがたり2
わたしのネット上の執筆活動は高校時代から歴史があり、当時は日に1時間半乗っている新幹線の中でせっせと携帯小説を書いていた。
中学生が主人公のミステリーや、高校生の初恋物語。主人公を小学生時代から描く大河ものまで書こうとした。
その頃書いた小説は、今読み返すと筋も通ってなければ話も幼稚で、それを書いていたという事実に顔から蒸気が噴き出る思いだが、あの頃は妄想の世界が唯一の逃避先だった。
想像してみてほしい。
田舎で徒歩圏内の中学校に通ってのびのびと育った少女が突然、しわくちゃのスーツ姿のおじさんとおじさんの間に挟まれて新幹線に乗るようになる。隣との距離、およそ30cm。パーソナルスペースも何もない。現実逃避もしたくなるってものだ。
現実から逃避するには妄想に限る。
わたしは小説を書くだけでなく読む方も熱心で、夢中になれる作品を探しては通学時間に一気読みした。そうすれば例え右も左も前も後ろもおじさんでも、わたしの脳内は背の高い爽やかなイケメンが支配してくれる。
携帯小説は恐らくわたしが小学生の頃ブームが始まり、中学生の頃には、三浦春馬の認知度を高めた映画『恋仲』や、溝端淳平による『赤い糸』といった映像化により全盛期を迎えた。
わたしはもともと紙の本が好きで、携帯小説の存在を初めは否定的に見ていた。しかし中学2年生の時に、友人が書いた、わたしたちのクラスをモデルにした小説を読んで印象が変わる。
新聞記事で伝えられていたほど安っぽい感じはしない。むしろ、知らない人にも作品を読んでもらえる環境が心底うらやましい。そう思った。
中学卒業直前に初めて携帯を買い、わたしは真っ先に小説サイトのアカウントを作る。
あの時のドキドキには、初めて自分でソーシャルアカウントを作ったことへの不安と、これから自分は好きなものを創造できるんだ、という期待が入り混じっていた。
いざ高校生活が始まると、時速240kmで流れる車窓を尻目に、ガラケーの小さな画面の上で物語を紡いだ。
隣の席が空いている時は気楽に書けたけれど、誰くんが誰ちゃんを好きだと言うようなシーンを書いている時に限って隣には自分の父親くらいの歳のおじさんが座っていたりするので、うっかり画面が見えないように気を遣ったものだった。
そうして通学時間に書いた小説を公開し始めると、ほどなく携帯小説サイト上の友達ができる。
携帯小説のよいところは、執筆中の作品をリアルタイムに読んでくれる人がいること。作品を更新してはお互いに読んで、感想を送る。励まし合って、作品が完結すればねぎらう。
好きなこと、特に表現でつながっている“友人”へは、会ったことがなくても、ペンネームしか知らなくても、心の奥底で信頼感や安心感があった。
それは間違いなく友情だったし、同志であり、仲間だった。学校生活で辛いことがあれば、わたしは仲間の元に逃げることができた。同志は、見知らぬSNSの友達よりも、つながりが深い気がした。
最近ふと思い立ってソーシャル断捨離をした時、久しぶりに小説サイトにログインした。下書き箱には、忘れていた小説の構想がたくさんあった。
すべてに目を通してみたが、まるで中学生の頃に書いたけれど渡せなかったラブレターを読むような恥ずかしさとこそばゆさがあった。
そしてその文章の向こう側に、スーツ姿の大人たちに紛れて、一丁前に新幹線を使う紺色の制服の少女の姿を、そこに見た気がした。今のわたしにとって、その存在は少し遠かった。
今後使うと思えない構想については、もう一度だけ読んでから、そっと削除した。
———ケータイ小説 - 新幹線ものがたり2
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