リレーコラム第14周「わたしの生い立ち」

コラムを書き始めて1年がたちました。アッコルドがグランドオープンしたのが8月7日、わたしのコラムが初めて載ったのが8月14日。この12の月、それぞれにたくさんのことがあったので、1年前の今頃を思い返すと、「ハヤカッタナ~」とはとても思えないのですが、「コラムを書いて1年」というのは「早いなー!!」と感じます。

そしてこの「音楽×私」という名のコラムは、今回でひとまず終わりです。早かったけれども長かったこの旅の最後に、今まであえて避けてきたテーマを取り上げたいと思います。初回に書くべきだった「わたしの生い立ち」です。


「ゆとり世代こと平成一桁生まれ」

関東平野は栃木県の南側に生まれた「わたし」は、第一子としてすくすくと育つ。どれくらいすくすくかと言うと「50cmに満たない大きさで生まれたけれど、粉ミルクは表示の規定量より多く飲まないと泣き止まず、そのお陰か、3歳児検診の時に母子手帳の身長グラフの縦軸が足りなくなった」くらいである。

両親はわたしに、何か一生ものの趣味になるような習い事をさせたいと考えた。3歳になったわたしは母に連れられて幼児音楽教室の体験に行くも、個人主義ゆえ群れることを嫌い、窓から新幹線を眺めていた始末。母は「この子は個人レッスンでないとダメらしい」と悟り、今度は近くのピアノ教室を見学に行くも、「男の子だったらヴァイオリンもいいですよね」という謎のコメントを得る。ショートヘアだったゆえに当時はよく男の子に勘違いされ、お蕎麦屋さんで遭遇したおじさんに「かわいいねぇ。男の子はお母さんによく似るんだよね」と言われて1000円もらったこともあった。

まもなく4歳になる頃、わたしはヴァイオリンを始めた。両親がヴァイオリンに決めた理由は「将来どんな職業についても楽器と一緒にいられるから」。ピアノは案外場所を選ぶし引っ越しも大変。その点ヴァイオリンは身軽だ。

しかしわたしはなぜかレの音しか弾かない。家ではきちんと練習して童謡を弾いているのに、レッスンになった途端"レ"ばかり。半年ほど"レ"の音を弾き続けたのち、別の先生に習うことになった。新しい先生の前ではきちんと「ぞうさん」を弾いたもんで母は驚いたそうな。わたしと同い年のお子さんをもつ女の先生のもと、その門下では順調に曲を進めたわたしは、年に一度の発表会で、曲の難易度順に決まる演奏順を、年を経るごとに2人抜き5人抜きと躍進、小学1年生の年には「完璧な音程」でヴィヴァルディの協奏曲イ短調の1楽章を披露し、周囲を驚かせた…けれども、ここから長い長い迷走期に入る。

翌年の発表会でもしっかり弾ききった。つもりだったのに。どうも音が全然飛ばなくなっていたらしい。客席に音が届いてこない。我が母はそう感じたそうだ。ボウイングが悪いに違いないと気づいた母と共に、その後わたしは何年も弓の持ち方から手首の軌道から何から迷い続ける。

ヴァイオリンを習い始めた段階で、そもそも1/8というサイズの分数楽器(子ども用の小さい楽器)から始めた。1/8は110cm、4・5歳時相当のサイズなのでその時点で年の割りに大きめだったが、その後もめきめきと背を伸ばしたわたしは特に、年長から小学3年生になるまでに毎年楽器のサイズを替え、普通なら中学生、早くても小学校高学年から使い始めるフルサイズの楽器を、9歳と1か月で持つことになる。小1の時は体のサイズのバランスがうまくいっていて、なんだか弾けてしまっていたものの、そこからさらに背丈腕丈が伸びて、体の使い方がわからなくなったのではないか…今となってはそう考察できるけども、あの時はそんなこともわからないくらいには無知だった。ただでさえ先の見えない道なのに、濃い霧が視界を阻んで、手探り摺り足で進む思いだった。


「藝高史上前代未聞だった松葉杖受験」

小学生の頃には音楽高校に進むと心に決めていたが、とても藝高に受かると思えなくて、気が沈んだ時期もある。コンクールはろくに受けたこともなく、世間知らずで、賞歴なんてまったくなしに、それでも自分の精一杯を尽くしていた。高校受験目前の年明け、事故は起こる。

冬休み明け初日の体育の授業。冬休みに弾き籠って固まった体をほぐしたいと思った。とはいえ、ランニングの後でバスケットボールが始まってからはさすがにボールを自主的に避けていた。ところが不意打ちにボールはやってくる。猛スピードでドリブルしてきた子をよけ切れなかった。衝突。足首に走る激痛。歩けないような怪我は初めてだった。

受験直前。帰宅しても夜まで黙っていた。でも歩き方が明らかにおかしくて家族にばれた。あまりに腫れ上がった左足にみんな驚愕。翌朝病院へ。症状は靭帯損傷だった。家について、椅子に座ったまま、借りてきた松葉杖を呆然と見つめたのをよく覚えている。しかしそこからわたしは火がついた。受験まであと10日。それまでぼんやりしていた演奏がはっきりしていった。痛みには耐えつつも、松葉杖ライフをもはや楽しむ勢いでわたしは受験に取り組んだ。入試の面接で、「ヴァイオリニストにとって重心がかかる左足を怪我していたことで演奏に影響はありませんでしたか」と聞かれたが、正直あの怪我がなかったら弾けなかったかもしれないとも思う。

足が完治しないまま高校に入った。怪我を抱えての遠距離通学もなかなかハードだったが、ともかく、わたしの1番の音楽的環境の変化は音楽高校進学だった。何よりカルチャーショックが大きかった。それまでは「ヴァイオリンが弾けるまほちゃん」として周囲に認められていると思い込んでいた。けれど今やそれは「特徴」ではない。何かが弾けて当たり前の世界で、わたしは自信がかけらもなくなり、自分を見失う。入学時に学年1、2の成績だったソルフェージュでも、上級クラスに入ったものの、前期終わりの試験問題に歯が立たず撃沈し、わたしはしばらくヘタレの海をさまよう。


「卑弥呼の時代」

高校2年の後半からわたしはなぜかキャラが開花してゆく。例えばNMB48のリーダー山本彩が東京に来ると借りてきた猫になるように(例えがマニアックすぎる)、わたしも東京という土地で、それまでどこか構えていたのだろうか。わたしとしては本来のキャラに戻っただけのつもりだったが、周りから見るとそれは「開花」だったらしい。地元に忘れてきたあだ名「卑弥呼」が復活し始めたのもこの頃だった。

相変わらず賞歴はないまま3年生になった。自信もタイトルもないわたしに取り柄があるとすればプレッシャーからは比較的身軽なこと、そしてもはや無欲なこと。こんなわたしに弾ける舞台をくれてありがとう。そんな思いで、それ以外何も思わずに、「まぁ今回もどうせ入賞にかすりもしないんだろう」と思っていたコンクールで1位を取った。たくさんの人がおめでとうと言ってくれた。同時にうらやましがられもした。しかしこの結果はわたしに悟りをもたらした。

それは「1位を取っても本質は何も変わらない」ということである。1位を取ったからって2日後には毎週お決まりのレッスンのお時間がやってきて、ネタ切れのわたしはやはり撃沈したし、その数日後には大学の受験課題曲が出て、落ちる訳にはいかないという恐怖に晒されたし、音階はやっぱり前と変わらずにあまりなめらかじゃあなかったし、翌年には同じ部門の新しい1位が出る。

何が起ころうがわたしはわたしでしかない。つまりそれは、わたしはわたしらしくいればよいということであって。高校3年間、見失いかけていた「わたしという人間がヴァイオリンという楽器を弾く意味」は、「わたしがわたしでいるための営みだからである」という答えで、ひとまずの結論を見せた。


「現代に出会う」

大学に入ってから、わたしはなんだか解放されたような気がした。高校までのようにホームルームがないことを嘆く学生もいる中、わたしはそれゆえの自由を味わっていた。必修に追加して、興味関心の趣くままに授業を取った。今でもよく覚えているのは大学1年の後期の学科試験の時のこと。大講義室にて解答用紙を提出する列を見ながら、すべての学年の人が同じ教室にいる現象におもしろさを覚えた。……この空間では、1年生だってがんばれば1番になれるんだなぁ。大学は自分の努力次第という言葉を読んだことがあるけれど、こういうことかなぁ……

1年生の夏、初めての海外へ。鐘の音、教会の響き。毎夜開かれる演奏会。文学から入ってずっと憧れていたイギリスに、モーツァルトが生まれたザルツブルク。この旅で見聞きしたものは記憶の宝箱に大切にしまってある。

そんな、初滞在にして1か月も欧州で過ごし、師匠に「大冒険」と名づけられた旅を共にしたのは、ルトスワフスキの『パルティータ』。わたしの現代音楽の道を拓いた曲だ。この曲が妙にツボだったことから、現代音楽もいろいろ弾いてみようと思い立ち、わたしは現代音楽のコンクールに出る。

そこでいろいろな人に出会った。今日の日本を代表する作曲家や、憧れの存在で遠い人だったピアニスト、現代音楽協会の人や現代音楽評論家、聞きに来ていた若い作曲家のみなさん、なにより、共に戦い、かつ楽屋では助け合った出場者のみなさん。好奇心とチャレンジ精神が旺盛で愉快な人々が集っていた。そして、誰もが純粋に「音」を楽しんでいる世界が、そこにはあった。

以来新曲初演を頼んでいただくようになる。ご縁がご縁を呼ぶ。「この前誰々さんの曲を弾いているのを聞いて、今回自分の曲をお願いしたんです。」その言葉がなにより嬉しかった。わたしが必要とされているという実感が、自信のなさの塊みたいなわたしの心に風を通した。


「この先の航路について」

「結局自信ってなんだ?」というのが現在の卑弥呼サミット(わたし自身の、わたしによる、わたしのための会議)のもっぱらの議題なのだが、その答えはおいおい見つけるとして、今とこれからのことを。極度のシャイゆえに、いつも本業から話を逸らしてしまうが、今日くらいは真面目に書こう。

わたしが今いる環境は、オケと室内楽がアツい。初志を忘れないように、わたしはいつも自分に問う、何のために音大に来たのかと。ソロの曲だけさらっていたいなら個人で先生につけば良い。「藝大一、藝大という場所を生かして学びまくった人になりたい」という目標を入学時に抱いたわたしは、坂東玉三郎や平田オリザなどの特別講義に足を運び、時には音校と美校を隔てる横断歩道を越えることもいとわない。それがかえって器楽科としては異色のフットワークなのだが、この環境を生かさないのはもったいないと思うから、興味を抑えることはしない。

と言いつつ1番気持ちの重きを置いているのはソロであるのにずっと変わりはない。最近は現代ものの本番が続き、古典やロマン派を学びながら、現代曲に並行して取り組むという、自分にとってとても理想的な状況にある。かつ、藝高受験前以来まもなく在籍7年目の澤和樹先生門下に籍を置きつつ、今年度の招聘教授ピエール・アモイヤル先生にも習うことができ、学外では高校の頃からジェラール・プーレ先生にお世話になり。でもプーレ先生やアモイヤル先生に習ってるからと言って、将来的にフランスに行きたいかというとそう考えているわけでもない。いつかは留学をと思いつつまだ具体的な場所は決めていないのだ。

コラムを書くようになって以来、自分から発信していくようになった。コラムを始めるにあたってそれまで避けていたFacebookを始めたし、YouTubeに卑弥呼チャンネルは作ったし(友達とネタ動画を投稿しているだけだが)、7月にはついにブログを開設した。人前に文章を出すにあたっては、これまで以上に「よい文章」に触れるよう意識して、なぜそれがよいと言われるのかも考えるようになった。4月からは「文章表現論」という講義を取って、国語の先生に文章のコツを教わりながら鍛える機会も作っている。

この1年、時に産みの苦しみを感じながら、わたしはこのリレーコラムを通して積極性を手に入れた気がする。リレーコラムが始まってから不思議と本番も増えた。これは直接的に影響があったというより、家と学校の往復しかしていなかったわたしのノリが良くなったからだと思う。 かつてはとりあえず家にいること、すぐに帰ることしか考えていなかったけれど、今は、わたしを必要としていただける限り、どこへでも飛んで行きたいと思うのだ。


いつも始めっからはらだ節ギア全開で、読者のみなさまを振り回しました。でもネタ切れせずに文章を好き放題書き続けられたのは、こんな勝手をおもしろいと言って許してくださった編集者サマと、読んでくださるみなさまからの励ましの声のおかげであります。これからもどうぞ、うさギをよろしくお願いいたします(そっちか)


ーWebアッコルド「音楽 × 私」より 2014年8月27日掲載

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