リレーコラム第7周『習慣』
習慣
英語を習いに通っている語学学校の授業で先日教材にこんな話があった。世界一周旅行に出かける予定の女の子が、各国の留学生にその国の習慣について尋ねる。例えば友人宅での夕食に招かれたら。韓国では、家に入る前に靴を脱ぐこと。ドイツは、親しい友人との約束でも決して遅刻してはいけない。インドネシアで食事をする時は、右手で食べること。反対に、アルゼンチンではフォークは必ず左手で持つこと。などなど。
そして先生に課題を与えられる。僕が日本に初めて来た人という設定で、気をつけるべきことをアドバイスして。わたしは、家に入る時は靴を脱ぐことを挙げた。これは韓国だけでなく日本も同じです、と。すると先生は言った。
もし、朝急いでいる時に、編み上げブーツを履いてから、リビングのテーブルに携帯電話を置いてきてしまったことに気づいたら、どうする?
靴を脱いで取りに行きますよ。
本当? ブーツを脱いだり履いたりしていたら電車に間に合わなくなってしまうよ?
だったら膝で歩いて取ってきます。
まさか! そのまま靴で上がって取りに行ったらすぐじゃない!
いえいえ、それはできません。
一体どうして?
靴は汚いと思うからです。
そんな!信じられないよ、ブーツのまま上がって何が悪いのか全然わからないや、不思議だね……
呼吸
自分にとって当たり前のことほど、他人から見ると理解しづらいのかもしれない、と思う場面に、このところ何度か遭遇した。
11月後半で新曲を弾く機会が2回あった。新曲の演奏にあたって、作曲者に立ち会ってもらい練習を重ねた。その中で「これは弾けません」という場所が出てくる。ここを下げ弓でこれだけ弾くと、次にこの音を弓のこの場所で弾くのは大変です。実演しながら説明をしていると、へぇそれは難しいんですね、と驚かれたり、反対に、こんなこともできるんだ、と言われたり。あるいは、弦楽器のことを知らない人に奏法を言葉で説明するのが難しいこともあった。
ボウイングとは、あまりに感覚的なものなのだろうか。また、移弦という発想が、弦楽器奏者には染み付いているけれど、これを他者にわかるように言葉にするのは難しい。例えば目の前に3オクターブの音階を示されたとする。奏者はそれを見て何を思うだろうか。ピアニストだったら、何の指から始めて、どこで親指を手の平の下へくぐらせるかを考えるだろう。弦楽器は? この弦で始めてここでポジションチェンジをして……この説明で奏者の気持ちになれる人は、弦楽器のことをよく知っている人に違いない。
弦楽器奏者にボウイングとは何か、移弦とは何かと訊くのは、人間に二足歩行とはどうやってするのか、または生き物に、呼吸とはどうなっているのか、と訊ねることに似ているかもしれない。自分から「あたりまえ」を取り除いてみるというのは、なかなかできない。
個と般
普通、という言葉がある。わたしはこの言葉にはふたつの意味があると思う。ひとつは、世の中において普遍的なもの、ということ。もうひとつは、自分なり他人なり、その人の日常。つまり、あたりまえ。
モノマネがおもしろいのは、その人だけが「ふつう」「あたりまえ」と思っていることを、他者が真似することで、当人から切り離して見るからである。それを本人が「自分のこういう癖、おもしろいでしょう」と言ったら、興ざめというものだ。
つまり、普遍的な、一般的な、を意味する「普通」は、同時にものすごくパーソナルな意味も抱えている。しかしわたしたちは往々にして気づかない。自分のふつうは、他人のふつうではなく、むしろイレギュラーであることに。
「そういうわけだから結局『ふつうの人』って世の中にいないよね。」人から変人だねと言われて、そう返していた友人がいる。自分は普通の人間だと思っている人ほど、おもしろい人だったりする。先の作曲科の人からこんな話を聞いた。ある哲学者の言葉らしいのだが、喜劇役者が自分のことをおもしろいと感じた瞬間、観衆が感じるおもしろさは半減する、というような内容だった。真面目にやっていることこそが、多いにウケる。自分で自分をおもしろいと思って失敗するわかりやすい例は、オヤジギャグだ。おっと失礼……
では普遍的な共通認識は世間に存在しないのだろうか。いやいや、「常識」というのは確かにある。簡単なところからいくと、人に意地悪をしない、あいさつをする、思いやりの気持ちを持つ……盗みを働かない、であったり、人を傷つけないこともまた常識。つまり、人々の普遍的な認識を、誤解や差異による争いが生まれないように明文化したものが憲法や法律なのではないか。「正義」というのは個々によって考え方が異なるので、一見、具体的な正と悪を示す「法」とは相反する、抽象的なものに思える。けれど法というのは、万人の正義をまとめたものであるから、このふたつは同一直線上にあると言える。みんなの常識の上に立つ「法」。では、わたしたちの「知る権利」は、あって「あたりまえ」と言えるのか、はたまた、言えないのか。
呼吸 その2
呼吸ほど、あってあたりまえのものもないけれど、呼吸ほど、感謝しなければならない存在もないかもしれない。たとえば1日を終えて床に就くとき。あぁ、明日はあれしなきゃ、これしなきゃ。いやだなぁ、明日が来なければいいのに。そう、一度も思ったことがない人はいるまい。けれど、それを本気で思う人も少ないであろう。明日が来なければいいといいつつ、なにも死にたいとまで考えているわけでもなくその言葉を使う人が大半。寝ている間も呼吸が絶えることなく続くことを、疑ってもみない。世の中にはもちろん、本当に追い詰められている人だっているけれど、まぁ、だいたいの人が無意識のうちに、明日がくることを信じ、願っている。
誰もがまたいつか会えると思っていた。オレグ・クリサ先生の奥さま、ピアニストのタチアナ先生。12月7日の午前1時すぎ、交通事故で亡くなった。クリサ先生は2009年度の藝大特別招聘教授で現在はイーストマン音楽院の教授を務めていて、今でも日本の講習会によくいらしているが、必ず奥さまも一緒だった。この日もおふたりは一緒で、奥さまが運転していた車が、高速道路を逆走してきた泥酔ドライバーの車に正面衝突されたそうだ。同乗していたクリサ先生は軽症で済んだものの、その心の傷はいかばかりか。わたしは想像に絶する。コンクールの審査へも一緒に行く「おしどり夫婦」として有名だったそうで、ちょうど来月もご夫婦で来日予定だった。
思い返せば、わたしが初めて受けた外国人の先生のレッスンは、クリサ先生とタチアナ先生だった。高校1年生の夏の講習会。すっと背が高く若々しくて紳士的なクリサ先生に魅了された。優しくて、人を安心させてくれる、そんなお人柄。いつもおふたりでにこにことしていたのが印象的だった。そのセミナーの最終日には、ご夫妻によるミニコンサートがあって、パガニーニの奇想曲のピアノ伴奏つきを弾いてらしたのをよく覚えている。
正直なところ、あまり実感が湧かず、悲しいというよりは、驚いている。
ーWebアッコルド「音楽 × 私」より 2013年12月18日掲載
リレーコラム共通質問
Q.今年一番嬉しかったことは?
A.リレーコラムにコーナーをいただいたことです。笑 いや冗談でなく。周りの人に、特技を活かせる場を得られてよかったね、と言われます。そうして、わたしはみなさんに見守っていただいているんだなぁと実感できました。
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