リレーコラム第8周『わたしの独断と偏見によるSNSの考察』
わたしの独断と偏見によるSNSの考察
元旦。おせち。お雑煮。お年玉。ポストを見ればいつもより分厚い新聞。そしてたくさんの年賀状。……というのがわたしにとってのお正月だったが、近年この流れが変わりつつある。
今年の元日に届いたわたし宛の年賀状の少なさに、驚きを隠せなかった。しかし自分が投函したのが大晦日であるのを棚に上げたことをお断りしておく。
わたしのまわりは高校入学を機に携帯電話を持つ人が多く、その段階で年賀状を「あけおめーる」に変える人も少なくなかった。そして2日、3日と少し遅れて届く枚数が増えた。いつも書くのが遅い自分としては、これで大変気が楽になった。
そしてちょうど大学1年目に、「LINE」が爆発的に普及した。FacebookユーザーやTwitterアカウントを持つ人も増えた。その流れはますます加速し、SNSで新年のあいさつをする人が今年はより増えた。絵を描きたいわたしとしては、年賀状にある種懸けているものがあるため、メールでなく賀状を出したことに後悔はないが、自分の発想は時代遅れだろうかという疑問を持たずにはいられなかった。
端末別SNS適性
一口にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と言っても今は本当にたくさんあるが、従来の携帯電話、いわゆるガラパゴス・ケータイ(ガラケー)で使いやすいもの、スマートフォン(スマホ)から見やすいもの、パソコンで使うのが快適なもの、の大きく3種類にわけられると思う。もちろんそれぞれに互換性はあるが。
ガラケーで動作が快適なのはミクシィ(mixi)が有名どころか。一時は日本におけるSNSの代名詞だった。サイト内で様々なゲームも楽しめるため、ティーン層の支持が高い気がする。わたしが高校時代に受けた情報の授業では、SNSとは何か、その長所短所をmixiを題材にして学んだ。当時はフェイスブックはまだユーザーが少なく、mixiが主流だった。
スマホの、手元でするするとスクロールできるという長所が1番活きるのは、ツイッターだと思う。これはいつかのストリングの編集後記で青木編集長も書いていた覚えがある。また、LINEと1番相性が良いのもスマホであろう。ここ2・3年でLINEがここまで浸透した背景には、スマートフォンユーザーの急増がある。もちろんスマホが人気だったこともあるが、中には機種変更しようとしたらスマートフォンしか選択肢が無かったという人も少なくない。または周りがみんなスマホだから古臭いガラケーはカッコ悪いから持ちたくないという人もいる。わたしは使い心地を優先して、中学卒業後に買ったガラケーを今も使っている。とはいえiPod touchを持っていて、これがまるで「電話機能のないiPhone」のように働いてくれるので、そう困ることもない。周りに不便をかけることがたまにあるのは否めないが……
そして今やSNSのトップに君臨するフェイスブックは、パソコンから使う方がストレスが少ない。スマートフォンでももちろん利用できるが、スマホからだとサイトがなかなか重たい。パソコンから見ると、ひとつの画面の上に複数のコーナーがレイアウトされている。人々の投稿を追いつつ、お知らせや、自分に来たメッセージも同時に読めるのだ。タブレット端末は、スマホのように手で画面を抱えられるのに、パソコンからインターネットを使う時のような見た目でサイトを表示できるのがひとつ便利なところだ。タブレットはまだノートパソコンに敵わない点もいろいろあるが、ノートパソコンよりずっとポータブルにパソコンの世界を見せてくれる。
音楽家とSNS
音楽家はSNSを利用している人が多い。ある種のコマーシャルの場にもなるからだろうが、つながりを大切にする職業だからか。海外にいる人と簡単にコンタクトを取れるのも利点か。
これからの時代、様々なものが電子化されていくのは必然の流れで、それに抗う方が難しくなる。正直、今のわたしの大学生活はiPod touchとLINEとFacebookが無いと成り立たない段階まで来ている。
人に寄るが、音楽家はおしなべてFacebookやTwitterをよく見ている。携帯電話のメールではなく、Facebookのメッセージを利用して連絡を取ることもままあるが、これはきちんとチェックできる体制があるから成り立つ。Facebookを始めた当初、かつての音楽科でない頃の同級生を探したら思ったよりも少なかった。もしかしたら就活を始める頃に増えるのかもしれない。情報を得るには、なんせ便利だ。
また、室内楽のメンバーでLINEの「グループトーク」機能を使うと便利である。いままで一斉送信メールでがんばっていたものがひとつの画面で済むし、過去のやりとりも一画面上にあるため、受信ボックスと送信ボックスを行き来して、といった動作が省ける。わたしは初めLINE自体に抵抗があったが、騙されたと思って使ってみたら、その利便性ゆえ、なくてはならないものとなってしまった。
今日では、コンサートの宣伝においてSNSの集客力は侮れない。とはいえ、この効果的な利用法というのはまだ発展途上にあると思う。宣伝を受ける側にも、電子媒体との関わりがまだ一部にしか広がっていない。このところのSNSを使った宣伝方法としては、催し物の公式Twitterアカウントによるつぶやきと、Facebook上でのお知らせ(「イベントに招待する」)が主である。日々気が向いた時に目を通すSNSだからこそ、テレビCMではないが、人々の記憶により刷り込むような使い方があるのではないか、と最近考える。
世代間ギャップ
コンピュータは年々進化を遂げてゆく。普及率は上がる一方であるし、携帯電話を持ち始める時期もどんどん低年齢化している。わたしが小学校に入ったのは2000年だが、学校はパソコン室を作ろうか、というところだった。初めのうち、パソコンの授業は2人で1台。しかし1人1台時代になるまでに数年しかかからなかった。今の小学生は入学する前からひとり1台で当たり前。きっと親のスマホを触ったりしているし、自分のiPhoneを持つ子もいる。つまり彼らが大人になる頃には、同じ平成生まれであっても、一桁生まれのわたしたちと平成二桁の世代では、コンピュータを使う力に差があることだろう。
わたしが家で夏休みの課題をしていた時のこと。その科目のレポート、提出はメールで受け付け。WindowsでもMacでも可と言われていたということは、今になって気づいたけれど、WordファイルなりPagesファイルで添付しなさいということか……わたしはPDFにして出してしまったな……。
というわけだったので、わたしはパソコンの周りにあれこれ資料を広げ格闘していたのだが、ふと母の視線を感じた。わたしは瞬時に悟った。遊んでいると思われている……! いやいやいや、こちとら真剣に頭悩ませているのですって。パソコン=ゲームと思われている? それともレポートに関係ないものを見てるとでも? でもそんなことかまっていられないほどには締め切り間近。なので特に言いがかりをつけることはせず、視線を受けたまま作業をすることにした。昼間は学校に行って休み中の特別講義を受けたり、各種合わせがあったり、家に帰れば練習をして、夜お風呂を出たらレポート。講義の合間と通学時間も文献を追うほどには必死。取り掛かるのが遅かった自分が悪いのだが、数日間夜中の居間の空気はなんとなぁく居心地悪かった。
母とて、コンピュータを使った仕事をしていただけに理解はあるかと思っていたが、やはり大人から見るとそうもいかないのかなと改めて思った。もともと携帯やiPodは家ではあまり握り締めないようにして、「自分は携帯依存症ではない。」ことを無言で主張してきた。そう思われたくなかった。
ところがある日。母がしみじみ新聞のある記事のことを話題にしてきた。朝日新聞土曜版の「悩みのるつぼ」という、読者からのお悩みに評論家などがリレー形式で答えるコーナー。2013年12月7日の回答者はレコーディングダイエットで有名な、オタキングこと社会評論家・岡田斗司夫さん。息子のスマホ中毒をなんとかしたいというお母さんからの相談に、岡田さんは、あなたの息子さんは中毒ではなく、スマホユーザーとしてはむしろ控え目な方だと言う。
…「あなたの相談文では、息子がスマホを使って何をしているのか、その何がいけないのか、全く触れられていません。単に、触っているのがイヤだと書いています。スマホが何なのかわからないのに、息子が夢中になっている。だから不安で心配なんです。 つまり、問題は息子ではなく、あなたの無知と嫌悪感、『スマホ恐怖症』にあるんじゃないでしょうか? 息子はスマホを使いこないしている。あなたはスマホが嫌いで、息子が何をしてるのかわからない。わからないから、目の前で使われるとイライラするだけ。 思い切ってあなたもスマホ、使ってみませんか? その上で『これは百害あって一利無し』と思うなら、それは仕方ないでしょう。」…
最後に岡田さんは言う。
…「息子のスマホを禁止しても、それは今や『息子の可能性を狭めること』にしかなりません。あなたがスマホにチャレンジすることで『自分の可能性を広げること』を目指して下さい。」
わが母はこの回答に非常に納得し、感動したと言い、わたしにもぜひ読んでと勧めた。断っておくが、母はわたしが電子機器を使うことに厳しかったわけではない。ゲームボーイなどのゲーム機は与えられなかったが、わたし自身もその方針には納得していたし、幼稚園生の頃から父に教わってパソコンのお絵かきソフトなどを使っていた。たまごっちを買ってもらって一緒に育てたこともあったし、母自身スマホを持っている。パソコンを凝視するわたしに対する母の反応は、その世代にしてみればごく普通のものだったのではないか。わたしだって新しいものをすぐに受け入れられるかどうか。しかしそれは、未知のものへの不安や恐怖から来ていたのだということに気づいて、なんだか妙に清々しい気持ちになった。
そのうちパソコンのワープロ機能を使って板書を取ることが普通になる気がする。大学ではすでに、講義中に気になったことを検索するために、学生が授業の最中に、隠すことなく普通に机上で携帯を使うことも少なくない。将来的には小学生にもこうした習慣が広がるだろう。そうなった時に、自分の生徒が遊んでいない、と、教師たちはどうやって見分ければ良いのだろうか。
ーWebアッコルド「音楽 × 私」より 2014年1月15日掲載
リレーコラム共通質問
Q.新年の抱負は?
A.普段、新年の抱負は考えないのですが(続かないので)、新成人なので考えてみました。子どもたちに、大人ってなんだかかっこよくて楽しそうだな、大人になるのっていいな、と思ってもらえるような、ステキなオトナになりたいです。
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